自分の仕事をつくる④

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考え方

・働き方を訪ねて回っているうちに、その過程で出会った働き手たちが、例外なくある1点で共通していることに気づいた。彼らはどんな仕事でも、必ず「自分の仕事」にしていた。仕事とその人の関係性が、世の中の多くのワーカー、特にサラリーマンのそれと異なるのだ。どんな請負の仕事でも、それを自分自身の仕事として行い、決して他人事にすることがない。企業の中で、まるで自分事ではないような口ぶりでグチを漏らしながら働いている人々の姿を見てきた当時の自分にとって、彼らのあり方はとても新鮮だった。

・いずれにしても大事なのは、自分がしっくりこないことや疑問に思うことを素通りさせずに、常に意識し続けること。自分を大事にすること、自分らしさを模索し続けること。「やめずに続けていれば、その時にはまだわからなくても、5年とか10年とか経った時に形になるのです」

・彼は社内の資料室へ通い、世界中のCMに目を通して、その中から自分が面白いと思うものをビデオテープにまとめはじめる。じきに、自分が魅力を感じたCMには、共通するいくつかの規則があると気付くようになった。魅力的な物事に共通する何らかの法則を見出そうとする時、彼がとる手法は「好きだけど理由がわからないものを、いくつか並べてみる」というもの。同じように惹かれるものを並べ、そこにどんな要素が含まれているのか、自分の中の何が感応しているのかを丁寧に探っていく作業だ。

・中途半端な掘り下げはマスタベーションと評されかねないが、深度を極端に深めてゆくと、自分という個性を通り越して、人間は何が欲しいのか、何が快く思い、何に喜びを見出す生き物なのかといった本質に辿りつかざるを得ない。歴代の芸術家や表現者が行ってきた創作活動は、まさにこのくり返しだ。自我のこだわりではなく、世界にひらかれた感覚をもってその仕事を行えるかどうかが、つくり手の器の大きさにあたるのだと思う。

・自分のための道具を自分でつくり、それを欲する人が増えることでマーケットが育ち、仕事として成立する。最初は創業者の手の中にあった小さな仕事が、大きなビジネスに成長してゆくプロセスを辿った会社は少なくない。

・彼らの仕事の価値は、彼ら自身の存在に深く根ざしている。しかしそもそも仕事の本質的な価値は、そこになかったか。誰が、誰のために、それをつくっているのかということ。どこの誰がつくったのかわからない山のようなモノゴトに囲まれて生きている現代の私たちの世界は、むしろ異様なものかもしれない。大事な人が自分のためにつくってくれたモノであれば、多少形がいびつでも、それだけの理由で価値が損なわれることはない。が、つくり手との関係性や物語性に欠けるプロダクトは、モノそのものの美しさや機能に評価が集中しがちだ。

・スタッフの気持ちいい対応だとか、笑顔だとか、自分たちが「快い」っていうことですかね。おいしいパンはあちこちにあるんだけど、店員さんたちがこんなふうに気持ちがいい店はなかったていう手紙を、後からいただくことが多い。

・自分の目的は何だろうって、改めて考えてみたんです。すると、パンそのものが目的ではないな、という気持ちが浮かんできた、目的というと大袈裟ですが、みんながこう幸せにというか、気持ちよくというか、平和的にっていうんでしょうか。そんな気持ちが伝わっていけばいいかなって思うんです。パンは手段であって、気持ちよさだとかやすらぎだとか、平和的なことを売っていく。売っていくというか、パンを通じていろんなつながりを持ちたいというのが、基本にあるんだと思います。

・色や感触がどうといことより、そのモノ自身が、大事か大事じゃないかということの方を、私はずっと気にしています。私のすべての仕事において、ものをつくることの大事さ以外は、全く些細なことなんです。気になることじゃない。

・たった一つの言葉も、人の口を割って出てくるまでには、その内面で、時には何年間にもわたる旅をしている。デザインやモノづくりも同様だ。その人が感じた世界、経験した出来事がそこに結晶化する。「モノを通じて、それをつくった人が生きてきた経験のあり方はわかります。衣服からでも、その人の生き方だとか何でもわかります。それは言葉と一緒です」

・ひと目見ただけだと、木々の葉はみな同じに見えますが、じっと見れば一葉一葉が違うことがわかってくる。ひとつの景色に深く見入ると、その中に限りない多様さを見出すことができる。音もそうだ。見入る、聴き入るといった言葉は、外側からの観察ではなく、対象への没入感を示す。「なんでも深く入っていくと、だんだんと細かい細部が見えてきます。森へ入れば、はじめは単純に見えていても、だんだん複雑になって違うものが見えてくる」

・自分の職業がなんであるとか、そういうことはあまり気にしません。私は、モノをつくってるというだけでいいんです。

・自分がどんな場所を気持ちいいと思うか。その判断力がなかったら、気持ちのいい場所を生み出すことなどできない。モノづくりは無数の判断の積み重ねだ。もし、つくり手が自らの判断力に自信を失ったら、一体何が作れるんだろう。

・やっぱり、身体を含むモノづくりの環境全てが、すごく大事だなって思います。身体がいい状態にないと、いい発想どころか発想そのものがなくなるし、押しつぶされちゃう。たとえばお腹がいっぱいだと、風が肌を撫でる感じとか、雑木山の匂いだとか、そういうことも感じなくなってしまう部分があると思います。都市の中で情報に埋もれていると、感覚を常に閉じて鈍感な状態にしていないと、やっていけなくなってしまうでしょう。でも、僕は常に身体をクリアな状態にしておきたい。自分が健康でなかったら、人に優しくもできないしね。

そもそも模型なんて生活必需品ではない。僕らのような仕事がなくなったところで誰も困りはしないでしょう。だからこそ、つくる側が楽しんでいなかったら嘘ですよね。最初から遊びの世界なんだから、馬鹿みたいに思いっきりこだわった仕事をした方がいいと思うんです。

・モノがいくら充足しても、豊かさの実感が満たされない理由は、こんな単純なところに端を発しているのではないか。模型は確かに生活必需品ではない。しかし絶対的に必要とされ、その意義があらかじめ約束されているものなど、この世の中にどれほどあるだろう。唐突な比喩かもしれないが、たとえば花を生けることは生活において必需ではない。が、それを意味がないということに意味はなく、花を生けようと思う気持ちに尊い価値がある。同じように、モノの価値も、結局のところはそれを「つくりたい」という純粋な気持ちの品質にかかっているのではないか。

・自分がとことん馬鹿になれることを、忘れないことです。馬鹿をやれることを大事にする。もちろん自分だけではなく、馬鹿をやれる人についてもですよ。

後先を考えない人は「馬鹿」と称されやすい。しかし本来は、今この瞬間の累積以外の何ものでもない。最も退屈な馬鹿とは、いますぐに始めればいいことを、「明日から」「来年からは」と先送りにする人を指すのだと思う。いま現在の充実を積み重ねることが何よりも大事であるのに、私たちは様々なことを先送りにしやすい。今この瞬間の幸せよりも、将来の幸せの方に重心を置きやすい心性がある。

・彼らの仕事がもつ魅力の根源は、働く中でつくり手本人が感じている喜びや快感にある。またその仕事の感覚は「いつか」ではなく、今この瞬間に向けられている。彼らは仕事において「今この瞬間の自分」を疎外しない。自分がほかでもない自分であることで、その仕事が価値を持つことをよく知っている。

・デザインの分野に限らず、私たちは企業という母体からの乳離れを始めているのかもしれない。GDPの数値が、豊かさの実感や人生の充実感に直結するわけではないことは、既に知っている。自分を満たす、自分事としての仕事。もちろん、会社で働くことと個人で働くことを、対立的に捉える必要はない。要は、仕事の起点がどこにあるか、にある。私たちはなぜ、誰のために働くのか。そしてどう働くのか。「頼まれもしないのにする仕事」には、そのヒントが含まれていると思う。