自分の幸福論

今日は幸福について少し自分なりに話していこうと思います。

三木清さんの「人生論ノート」に「成功は過程であり、幸福は存在である」といったことが書いてある。

幸福は今あるもので、幸福は求めるものではない。

といったもの。幸福は外にあるものではなくて、自分の内にあるもの。

 

物欲なんてものもそう。あれを手に入れれば自分は幸せになれると信じて、多額のお金をつぎ込んでみて実際に手に入ったとしても、その買った瞬間は幸福感に包まれるけど、その幸福感は長続きしない。

少し時間が経てばまた物欲が生まれて買わないといけないという衝動に駆られる。そんな繰り返しのような気がします。

幸せを求めれば求めるほど、人は不幸になっていくってのは間違っていないかもしれない。

 

三木清さんもいっているように幸福は存在なのだ。

幸福は今あるもの。気づいているか気づいていないかの話。

幸福に「なる」のではなくて、幸福で「ある」ということ。

なに不自由なくご飯が食べれるといこと。

働くことができる場所があるということ。

暖かいお風呂に入れること。

雨を凌げる住まいがあるということ。

健康で入れること。

あげたらキリがないぐらいに幸せであることに気づかされる。

幸せであることに気づくことで、人は幸せになれるのかもしれない。

 

ついついこの考えは日常の中に溶け込んでいって忘れてしまいがちですが

こういう考えを持っていたら、この先、なにが起ころうと起こらまいが

今生きていることが幸せなる、それが全てだと思うようになる。

 

今自分が幸せという実感するためにも、夜寝る前に感謝ノートを書くといった習慣を始めようと思います。

 

生きる力になる禅語

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煩悩の中に悟りがある

・平常心とは、一言でいえば、造作のない心。つまり、作り事をしないということがこの言葉で説かれています。

・すべての出来事は誰のせいでもなく、ただ起こっているだけ。「すべて何があっても自分のせいとは思わないこと」と言って、すぐ後に「そして誰のせいとも思わないこと」だと言われました。「すべてそういう出来事が起こっているだけであって誰のせいとも思わない」というんです。

・「自分のせい」と言うと、それは結局自分が身心を苦しめるだけです。かといって「お前が悪いんだ」と言えば、これもまた人を攻撃しているようで自分の体と心を痛めつけているでしょう。だから、もうすべてはそういう出来事が起こっているだけだと見る。

・笑うときというのは、あれこれ考えずに、ただ可笑しいから笑うだけです。ただ今という瞬間にいるだけです。そうすると、お互いの壁がなくなって本当に打ち解けていくのではないかと。

・我々は格好をつけたり、あるいは言葉を発したりすることによって、どうにか人に対しては取り繕うことはできます。しかし、自分をごまかしたり、騙してはいけない。自分で納得がいかないものは納得がいかないものとして、ちゃんと認めていかなければならない。自分でわからないことは自分でいい加減にしてはいけない。そのようにして自分で自分をごまかしてはいけないということです。

・(あなたが私のことを罵るのであればいくらでも罵りなさい。あなたが私に唾をかけるのであればいくらでも唾を吐きかけなさい。唾がなくなったならば水でもぶっかけなさい)これは決して他を圧するような、他を攻撃するような、他を折伏していくような強さではないんですね。何をされても、何を受けても、微動だにしない。こういう心でいることこそが最も強いと言ってるわけです。

・「一切人の与に煩悩を為す」修行とは悟りを目標としているものではなくて、そこを通り抜けて、人のために尽くしていくということでなければならないと言っています。

・我々には、食欲とか男女の欲望とか睡眠欲とか、さまざまな欲望があるわけですが、仏教の一つの立場として、そのような欲望を完全に滅することが悟りであるという考え方があります。ただ、特に禅では、それは通過点にすぎないんです。欲望は完全にはなくならないでしょうけれども、いずれにしても欲望を制御するだけで終わってはいけない。だから、禅には欲望をなくして仏の心になるというのではなくて、その欲望が実は仏の心なのだと考えます。

 ・問題はその煩悩が何によって生じているものなのかということです。自分の楽しみのための煩悩なら、それはダメ。自分の欲望も最低限は必要でしょうけれども、仏というのは人々のために煩悩するのだというわけです。人々が苦しんでいるのを見て自らも涙を流していく。人々が飢えているのを見て、この人に何か食べさせせてあげたいと思うのが仏なのだと。もしも煩悩がなかったら、そんな人の苦しみも何もわかりません。お腹が減ったなあという気持ちがあるから、「ああ、つらいだろうな」とお腹が減っている人の気持ちがわかって、何かをあげることができるわけです。「煩悩は人のために使え」。同じ煩悩を持っていても、自分のために煩悩を使っているのは凡人であって、人のために煩悩を使っていくのが仏です。

・「南無地獄大菩薩」ある役人が趙州に「禅師のようなお方は決して地獄に行くことはないでしょうね」と聞くんです。すると趙州は「いや、私は真っ先に地獄に落ちる」と言うんですよ。「どうしてあなたのようなお方が地獄に落ちるのですか」と役人が不思議に思って聞くと、「私が地獄に行かなければお前を救えんではないか」と答えるんですね。つまり、お前が地獄に落ちるのは当たり前だが、その地獄に落ちて、地獄に落ちている人を救ってあげようと言う発想なんですね。

・私たちは本来仏であり、仏であるから仏に気づき、仏になれる。自分でない自分を一生懸命求めても絶対に仏になれない。まず自分が仏であることに気づきなさい。そして磨いていきなさい。仏が仏であるということに気づくために修行をする。仏になるのが目的ではなくて、もうゴールに立っている。私たちはつい道の向こう側にゴールや目的地があって、そこまで一生懸命行こうと考えますが、実は私たちの歩いている一歩一歩がゴールなのだということですね。先ほどの平常心とのかかわりで言うならば、先へ先へと足りない自分を求めようとするのではなくて、今いるところにただ立って、そこにゴールを味わうということが平常心なのかなというふうにも思います。

・人生は先がわからない迷路のようなものです。でもそれは行き止まりがない迷路だと私は思っています。行き止まりがあったら正解と不正解に分かれてしまいますが、行き止まりがなければどの道を選んでも必ず前に進むわけです。すべての一歩が真実の一歩であるという思いで生きていくことが、禅の精神なのではないでしょうか。そのように生きるために、まず自らが仏であるということに気づかなくてはいけないわけです。

・人生には人それぞれ、いろんな目的や志があると思いますが、最終的に誰もが「幸せになりたい」、「理想の自分になりたい」と思って生きています。そのために私たちは「今のままじゃいけない、こうしなきゃいけない」と自分を否定していきます。でも考えてみると簡単なことですが、「幸せになりたい」という人は絶対に幸せにはなれないんです。「理想の自分になりたい」という人は絶対に理想の自分にはなれません。これは保証します。なぜかというと、今の自分に対して「私は不幸せです」とか「私は嘘の自分です」という看板を掲げているからです。私たちは今にしか生きていません。過去に生きている人もいないし、未来に生きることもできません。ずうっと今なんです。その今を否定して、「まだダメだ」「これではダメだ」「今の自分は偽物だ」「今は不幸せだ」と言っていたら、人生全部が不幸せになり、全部が偽物の人生になってしまう。幸せになりたいのなら、今の自分をちゃんと認めればいいのです。今しかないのですから、他と比べる必要はありません。

・いつも「あれやらなきゃ、これやらなきゃ」と思うのですが、時々ふと「あ、今この瞬間、このために自分は生まれてきたんだ」と思うことがあります。例えば、朝パッと目を開けて窓の外を見ると青空がきれいで「あ、この空を見るために自分は生まれてきたんだな」と思ったり、境内でおじいちゃんにすれ違って「お早うございます」と挨拶をしたときに「あ、この人と出会うために生まれてきたのかな」と思ったり、子供を抱っこしてギュッと抱きしめたときに「あ、これをするために生まれてきたのか」と思ったり。でも本質的なことをいえば、何かのために生きるというよりも、ただ生きることそのものが目的なのかなと思います。逆に目的意識が強すぎて、それに向かのに「どうせ自分はダメだろう」と思ったり、あるいは挫折をしてしまったときに自堕落になってしまうのではないかと。でも、そういうふうに自堕落になったときこそ、「今ここ」にドンと腰を据えるべきだと思うのです。

・自分はこんなに苦しい、自分はこんなに悩んでいる、自分はこんなに煩悩だらけで・・・と言っているけれども、その自分を見つめてみると、その自分こそが悩み苦しみをつくっているんですね。自分が煩悩製造装置なんです。煩悩の根源は何かと探っていくと、自分自身がそれなんです。そんな自分が煩悩を払おうとするのは、煩悩をつくっている張本人が煩悩を払おうとすることですから、自分の体を自分で持ち上げるのと同じぐらい無理な話です。だから、煩悩があってはダメだと払うのではなく、まず自分が煩悩の塊であることを直視することが大事になるのです。

・私が注目したのは、「最初は外の情報や自分のわがままな欲望は調えなさい、それに振り回されていたらダメですよ」と言って、体を調え、呼吸を調え、心を調えてきたら、その次の段階に再び「欲を持て」というのが出てくるところです。この欲というのは「良い願い」ですね。もっと努力をしようとか、もっと頑張ろうとか。この欲は修行の原動力になるというか、いい意味での欲というのがあるわけですね。それは「意欲」ですね。

・五縁(五つの準備)

持戒清浄・・戒律を保ち、正しい生活をする。

②衣食具足・・適度な衣食で心身を調える。

③閑居静処・・喧騒を離れ、静かで心が落ち着く環境を調える。

④息諸縁務・・世間のしがらみや情報過多の生活から離れる。

⑤得善知識・・よい師や仲間を得る。

・やはり皆が完璧ではないんだという意識を持って、自分の煩悩がどんな形であるかを見定めて、そして同時に相手にもまた違う煩悩があるんだと認めることが大事なのではないでしょうか。煩悩同士が対立したり、判断し合ったり、裁き合ったりするのではなくて、お互いにお互いの煩悩を理解し、認め合い許し合って、そして最終的に煩悩同士が支え合っていくというところに慈愛が生まれるのではないかと思うのです。

・「自分が自分を自分する」とは一体どういう意味なのだろうかとずっと思っていたんです。普通に考えると、「自分というものをなくせ」というのが禅の教えだと思いますが、自分を捨てて何かを悟れというのではなくて、まず自分の生きなければダメだというわけです。つまりこれは、自分の煩悩を引き受けて生きるというのが禅の生き方なんだという意味ではないかと思ったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

走って、悩んで、見つけたこと②

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・僕は他人にはなれないし、、他人も僕にはなれないということ。人の経験は人の経験でしかありません。だから無理をせず、自分の能力をちゃんと伸ばしていくことを意識したい。結局、アドバイスをもらったり、本を読んだり、色々調べてみても、自分でやってみて感じなければ意味がない。僕もアドバイスを求められることがありますが、何を言っても結局自らに落とし込んでやらなければ同じじゃないでしょうか。

・練習して伸びない時期というのは、やはり誰しもが不安になります。ただ、初めはすごく気にして、気にして、気にしすぎて疲れてしまい、もう無理だ、と思った先に次のステップがあると思っています。1回の練習に囚われるのではなく、そのぶん他の練習で強くあればいいということ、1カ月の練習の中で疲れたときは、疲れたなりにがんばれたことに価値があるのだということにも気づきました。

・結局、レースは練習したことが全て出てくるのだから、意識を高く持って練習していれば、不安は和らぐし、気持ちの余裕も生まれてくるということに気づいたんです。僕は限りなく100%に近い努力をするだけ。不安は自分の中から生まれた不確かな偶像で、実体のないものを意識するぐらいであれば、本当に今やるべきことに集中をした方がいいという考えに落ち着きました。

・辛いときこそ前を見るのではなく、下を見て一歩一歩進んでいけば、そんなに苦しむことはないと思います。不安や焦りは他と比べたり、他人からの評価について反応してしまうからであって、自分の足元だけを見ていれば、その瞬間瞬間に価値があるということがわかるはずです。結局、今日の自分のベストを尽くすしかないんです。じゃあ今の自分にできることはなんだろうかとポジティブに考える。そうなれば不安はだいぶコントロールできるようになります。

・団体、モノ、人・・・日本人は特に何かに依存する傾向が強いと思います。もっとそれぞれが独立していていいと思うんです。もちろん僕が全く依存をしていないかと言ったら嘘になります。でも、依存をする部分があっても、全面的な依存はしないし、誰かに媚を売る必要もない。依存をするというのは、その方が楽だからではないでしょうか。結局、そういう人はベクトルが外に向いているんです。ダメだったときに誰かのせいにして、保険をかけたいのかもしれません。でもそれでは何も残りません。僕はなるべく自分にベクトルを向けるためにも、自分のことは自分で決めているのです。

・もちろん自分で決断した選択が正しくなかったこともあります。けれども後悔をするときはだいたいは人の意見に流されたときで、自分で決めたときは後悔は残らない。むしろ今回ダメだったらから、次はこうすればいいじゃないかとポジティブに考えられるものなんです。

・知らないことから目を背けていたら世界を感じることはできないし、世界との距離は開くばかりです。向き合うことの怖さ、知ってしまうことへの怖さもありますが、強くなるためには目を背けるべきではない。むしろ僕にとって、できないことはないんだと感じられたことは大きなプラスでした。

・走る気分にならないとき、練習をやらない理由を探しますよね。だけどそれは誰もができることです。一番難しいのは自分が走ることについて、やるべき理由を探して、それに向かってちゃんと集中するということ。心から思うのは、やらない理由はないということ。まず最初に自分に言い聞かせるべきは、やらなきゃいけないんだ、ということ。

・みんなもっとシンプルに考えるべきではないでしょうか。できた、できなかった、やった、やらなかったで判断をすればいいのに、言い訳を探してしまう。その言い訳に価値はあるのでしょうか。当たり前のことですが、結果というのは結局今の積み重ねでしかありません。ときには一生懸命やっても結果が出ないこともありまう。だからといってやらなかったら、絶対にできないままです。だからやっていくしかないんです。

・僕は周りからみて格好悪い言い訳は絶対にしたくない。プロはプロの価値を下げるようなことをしてはいけないということです。

・いかなることがあっても自分が驚かないように心の準備をすること、不動心でこなすことが大切だということ。悪い日もあれば、いい日もあります。それに一喜一憂せずに動かない心を持って、そのときのベストを尽くす。特別なことは何もしなくて、目標を達成するためにいかに無駄なことをしないか、全ての決断は最終的な目標のためにある。

 

走って、悩んで、見つけたこと①

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・練習していると「きつい」と感じることがあると思います。ちょっと変だと思うかもしれませんが、僕はそんなとき頭と体を別々に考えるようにしています。きついと感じているのは脳であって、身体ではない。だから体には出さないようにと意識する。表情ひとつとっても、顔はなるべくリラックスした状態をキープして、思考と身体を切り離す。きついという感覚はすごく主観的なもので、冷静に考えて、そのきつさを分析すると意外と対応できるものです。

・マラソンはレースで得るものよりもトレーニング期間で少しづつ気付いていくものが多い気がします。それは一瞬一瞬、ひとつひとつのピースを大事にしていくということ。あまり遠くを見すぎず、着実にひとつずつのパズルのピースをはめていくイメージです。その日その日をちゃんと消化すること、常に前回やっていた練習と同じくらい、もしくはそれ以上の練習をこなすことを毎回続けていくこと。そういう目の前の自分と向き合う大事さはマラソンを始めてから知ったことです。

・一度決断したら終わったことはくよくよ考えず、次をどうするのかと考えるだけ。大切なのは常にポジティブで平常心であること。

・他人がどう思うかではなくて、自分の中での評価が僕にとってすごく大事で、今後はモチベーションを保ってやっていくためにも、そこはぶれることなく大切にしていかなければいけないと実感しました。今回の結果があって、自分の弱さや課題などがクリアになってきたので、そういう部分を省いて、次に向かっていきたいと、今は思っています。

 ・あまり色々なことを考えすぎると、競技に集中できなくなってしまうし、結局大事なのはきついトレーニングをいかに継続できるかということ。無駄なことに神経を使うよりは、機械のようになにも考えず、練習に集中することが大切だと思っています。

・感覚が変わるのが嫌だという選手もいますが、それは僕から見たら慢心です。感覚というのはすごく主観的なもので、自分の感覚であろうと、こんなに頼りにならないものはないと思うんです。それよりも目に見える結果で判断する。感覚にこだわるのは過去に囚われているとしか思えないし、自分の伸びしろを潰しているようなものです。今日調子悪いな、と思っていても、スタートしたら意外と走れたという経験がランナーならありますよね。それぐらい自分の感覚というのはあてにならないです。

・極端なことを言えば、1本1本、一瞬一瞬が大事。例えば、練習で200mを20本走るとします。このとき20本を走ると考えるのではなく、この1本、この200mをどう走るのかということを考えて、それを20回積み重ねる。このとき、1本1本のきつさがどこからくるものなのか、きつさを分割していくことも重視しています。

・マラソンにおいてはきつい瞬間があっても、その後に楽になる瞬間が絶対にあります。それを知っているから、きついことにも対応できる。きついと感じたら、今に集中して、その状況を冷静に判断して対応していく。

・もちろん、毎日戦うことの大変さも感じています。でも戦わなかったときに後悔することはわかっているし、明日後悔しないためには、今日やれることを100%やるしかない。僕はあまり先のことを考えるとどうしても疲れてしまうタイプです。明日の午前中はまたハードなトレーニングをしなければいけないと思うと憂鬱になることもあります。だからこそ今、目の前にあることに集中するようにしています。結果やライバルと同じで、未来は自分の想像でしかない。良くも悪くも自分が作り出したもので、ときにはそれがモチベーションにもなるけど、ではどうやって達成するのかと考えたら、それは過去の経験であって、イコール今の積み重ねでしかない。当たり前だけど、未来はすべて今の影響を受けているんです。きちんと積み重ねていれば、レースの直前に自分を信用することができます。練習さえきちんと積めていればあとはタイミングの問題です。たまたま合うこともあれば、合わないこともある。でもそのときのために常に準備をし続けていることが大事。

・スタートで敵わないと、俺はやってもダメなんだと最初から諦めてしまいがちです。でも5年、10年かかるかもしれないけれど、意志を持ち続けていれば、人は変わっていく。誰しもが劇的に変わることを期待しますが、そんな近道わなくて、意志を持って続けていくことで、少しづつ変わっていくんです。

・僕は流されることに対してすごく恐怖があります。それは競技に限りません。日常生活においても選択肢が無限にある中で、今の自分は何をすべきなのか。それを常に意識しています。

・結局どこに一番プライオリティを置いて行動していくか。こうありたいという思いが強いことが大切だと思います。口ではなんでも言えます。でも、やっぱり楽しいことが一番だよね、学校の友達が一番だよねとなってしまう。そういう日々の小さな妥協が大きな差を生み出してしまう。特別なトレーニングをしているとかではなくて、単に強くなりたいという思いの強さ、どこまで自分の私生活を犠牲にできるかということです。1日24時間という制約がある中で、競技においては、いかに必要のないものを取り除いて、必要なものだけで自分の身を固めていくか、無駄を省いていく作業がすごく大事になってきます。そう考えると他人と協調したり、他人に合わせ、寄り添って練習するのは、僕にとってはなんのメリットもない。

・やらない理由というのは探さなくても簡単に見つかるものです。だから僕はやらないと理由よりもやるべき理由を常に探して積み重ねています。やらない理由を排除したら、やるしかないことだけが残るはずだし、やらなければ後悔するだけ。難しく考えることは意外に誰でもできることです。

 

自分の仕事をつくる④

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考え方

・働き方を訪ねて回っているうちに、その過程で出会った働き手たちが、例外なくある1点で共通していることに気づいた。彼らはどんな仕事でも、必ず「自分の仕事」にしていた。仕事とその人の関係性が、世の中の多くのワーカー、特にサラリーマンのそれと異なるのだ。どんな請負の仕事でも、それを自分自身の仕事として行い、決して他人事にすることがない。企業の中で、まるで自分事ではないような口ぶりでグチを漏らしながら働いている人々の姿を見てきた当時の自分にとって、彼らのあり方はとても新鮮だった。

・いずれにしても大事なのは、自分がしっくりこないことや疑問に思うことを素通りさせずに、常に意識し続けること。自分を大事にすること、自分らしさを模索し続けること。「やめずに続けていれば、その時にはまだわからなくても、5年とか10年とか経った時に形になるのです」

・彼は社内の資料室へ通い、世界中のCMに目を通して、その中から自分が面白いと思うものをビデオテープにまとめはじめる。じきに、自分が魅力を感じたCMには、共通するいくつかの規則があると気付くようになった。魅力的な物事に共通する何らかの法則を見出そうとする時、彼がとる手法は「好きだけど理由がわからないものを、いくつか並べてみる」というもの。同じように惹かれるものを並べ、そこにどんな要素が含まれているのか、自分の中の何が感応しているのかを丁寧に探っていく作業だ。

・中途半端な掘り下げはマスタベーションと評されかねないが、深度を極端に深めてゆくと、自分という個性を通り越して、人間は何が欲しいのか、何が快く思い、何に喜びを見出す生き物なのかといった本質に辿りつかざるを得ない。歴代の芸術家や表現者が行ってきた創作活動は、まさにこのくり返しだ。自我のこだわりではなく、世界にひらかれた感覚をもってその仕事を行えるかどうかが、つくり手の器の大きさにあたるのだと思う。

・自分のための道具を自分でつくり、それを欲する人が増えることでマーケットが育ち、仕事として成立する。最初は創業者の手の中にあった小さな仕事が、大きなビジネスに成長してゆくプロセスを辿った会社は少なくない。

・彼らの仕事の価値は、彼ら自身の存在に深く根ざしている。しかしそもそも仕事の本質的な価値は、そこになかったか。誰が、誰のために、それをつくっているのかということ。どこの誰がつくったのかわからない山のようなモノゴトに囲まれて生きている現代の私たちの世界は、むしろ異様なものかもしれない。大事な人が自分のためにつくってくれたモノであれば、多少形がいびつでも、それだけの理由で価値が損なわれることはない。が、つくり手との関係性や物語性に欠けるプロダクトは、モノそのものの美しさや機能に評価が集中しがちだ。

・スタッフの気持ちいい対応だとか、笑顔だとか、自分たちが「快い」っていうことですかね。おいしいパンはあちこちにあるんだけど、店員さんたちがこんなふうに気持ちがいい店はなかったていう手紙を、後からいただくことが多い。

・自分の目的は何だろうって、改めて考えてみたんです。すると、パンそのものが目的ではないな、という気持ちが浮かんできた、目的というと大袈裟ですが、みんながこう幸せにというか、気持ちよくというか、平和的にっていうんでしょうか。そんな気持ちが伝わっていけばいいかなって思うんです。パンは手段であって、気持ちよさだとかやすらぎだとか、平和的なことを売っていく。売っていくというか、パンを通じていろんなつながりを持ちたいというのが、基本にあるんだと思います。

・色や感触がどうといことより、そのモノ自身が、大事か大事じゃないかということの方を、私はずっと気にしています。私のすべての仕事において、ものをつくることの大事さ以外は、全く些細なことなんです。気になることじゃない。

・たった一つの言葉も、人の口を割って出てくるまでには、その内面で、時には何年間にもわたる旅をしている。デザインやモノづくりも同様だ。その人が感じた世界、経験した出来事がそこに結晶化する。「モノを通じて、それをつくった人が生きてきた経験のあり方はわかります。衣服からでも、その人の生き方だとか何でもわかります。それは言葉と一緒です」

・ひと目見ただけだと、木々の葉はみな同じに見えますが、じっと見れば一葉一葉が違うことがわかってくる。ひとつの景色に深く見入ると、その中に限りない多様さを見出すことができる。音もそうだ。見入る、聴き入るといった言葉は、外側からの観察ではなく、対象への没入感を示す。「なんでも深く入っていくと、だんだんと細かい細部が見えてきます。森へ入れば、はじめは単純に見えていても、だんだん複雑になって違うものが見えてくる」

・自分の職業がなんであるとか、そういうことはあまり気にしません。私は、モノをつくってるというだけでいいんです。

・自分がどんな場所を気持ちいいと思うか。その判断力がなかったら、気持ちのいい場所を生み出すことなどできない。モノづくりは無数の判断の積み重ねだ。もし、つくり手が自らの判断力に自信を失ったら、一体何が作れるんだろう。

・やっぱり、身体を含むモノづくりの環境全てが、すごく大事だなって思います。身体がいい状態にないと、いい発想どころか発想そのものがなくなるし、押しつぶされちゃう。たとえばお腹がいっぱいだと、風が肌を撫でる感じとか、雑木山の匂いだとか、そういうことも感じなくなってしまう部分があると思います。都市の中で情報に埋もれていると、感覚を常に閉じて鈍感な状態にしていないと、やっていけなくなってしまうでしょう。でも、僕は常に身体をクリアな状態にしておきたい。自分が健康でなかったら、人に優しくもできないしね。

そもそも模型なんて生活必需品ではない。僕らのような仕事がなくなったところで誰も困りはしないでしょう。だからこそ、つくる側が楽しんでいなかったら嘘ですよね。最初から遊びの世界なんだから、馬鹿みたいに思いっきりこだわった仕事をした方がいいと思うんです。

・モノがいくら充足しても、豊かさの実感が満たされない理由は、こんな単純なところに端を発しているのではないか。模型は確かに生活必需品ではない。しかし絶対的に必要とされ、その意義があらかじめ約束されているものなど、この世の中にどれほどあるだろう。唐突な比喩かもしれないが、たとえば花を生けることは生活において必需ではない。が、それを意味がないということに意味はなく、花を生けようと思う気持ちに尊い価値がある。同じように、モノの価値も、結局のところはそれを「つくりたい」という純粋な気持ちの品質にかかっているのではないか。

・自分がとことん馬鹿になれることを、忘れないことです。馬鹿をやれることを大事にする。もちろん自分だけではなく、馬鹿をやれる人についてもですよ。

後先を考えない人は「馬鹿」と称されやすい。しかし本来は、今この瞬間の累積以外の何ものでもない。最も退屈な馬鹿とは、いますぐに始めればいいことを、「明日から」「来年からは」と先送りにする人を指すのだと思う。いま現在の充実を積み重ねることが何よりも大事であるのに、私たちは様々なことを先送りにしやすい。今この瞬間の幸せよりも、将来の幸せの方に重心を置きやすい心性がある。

・彼らの仕事がもつ魅力の根源は、働く中でつくり手本人が感じている喜びや快感にある。またその仕事の感覚は「いつか」ではなく、今この瞬間に向けられている。彼らは仕事において「今この瞬間の自分」を疎外しない。自分がほかでもない自分であることで、その仕事が価値を持つことをよく知っている。

・デザインの分野に限らず、私たちは企業という母体からの乳離れを始めているのかもしれない。GDPの数値が、豊かさの実感や人生の充実感に直結するわけではないことは、既に知っている。自分を満たす、自分事としての仕事。もちろん、会社で働くことと個人で働くことを、対立的に捉える必要はない。要は、仕事の起点がどこにあるか、にある。私たちはなぜ、誰のために働くのか。そしてどう働くのか。「頼まれもしないのにする仕事」には、そのヒントが含まれていると思う。

自分の仕事をつくる③

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考え方

・徹底的なテストでクオリティを高めていくことが、本物であることだと思っています。私たちは、マーケットの売れいきに応じてデザインしているわけじゃない。それを使う人が実際に何を求めているかに、常に関心があります。(アウトドアに居る=身を置くことを大事にする指向性は、パタゴニアの基本コンセプトかもしれない。それは創業者自身が何よりも前にクライマーでありサーファーであり、1年の半分をアウトドアで過ごしながら、そのなかでビジネスを考え育ててきたことで、そして、それがパタゴニアの現在の成功に至っていることの自信に根ざしていると思う。

・ですから私たちは、自分たちの製品の品質や使い勝手について、ごく自然に興味を持ちつづけてることができている。スタッフ自身によるフィードバックは重要。

・使う道具の質に、多くのデザイナーは敏感だ。しかし仕事の道具はコンピュータや文具だけではない。たとえばオフィス空間や、仕事上のちょっとしたコミュニケーション習慣など。環境という方が包括的かもしれないが、これらは仕事の質に強く関わる。

・その人が持っているもの、ちょっとした光っている部分に気付いて、ポッと焦点の合った仕事を与えると、人は必ず成長する。与えることが大事なんです。そんな時は、いくらでも平気な顔で働いているし、時間の使い方や他人との兼ね合いについての感覚も、もう僕の手を離れて成長していきますね。

・いまは長い時間をかけて、社会が新しい課題を探している時期だ。モノがあること、あるいはお金があることが豊かではないことはわかってきた。では次に目指すべき豊かさは、どこにあるだろう。

何をもって豊かなのか?これは人によって個体差があるから決して測ることができないのだけど、日本では、こんなに技術が発達して、ご飯も満足に食べれて、欲しいモノがあればネットでクリックすれば家まで届けてくれる、こんな便利な日本でも世界と比べたら幸福度は62位。発展途上国の方が順位がはるかに上だ。幸福や豊さは、便利なことやモノであふれていることではない。お金をもっていることに価値を求めている人は本当に幸せな人生を送っているのだろうか。豊かさとは、いま自分が過ごしているその時間に大きく関わっているんじゃないかな。

・僕もいくつかの大学で教えているが、学生たちと話していると、「好きなことをやっても食べていけるんですか?」「必要とされんですか?」という具合に、社会的価値をめぐる約束をあらかじめ取り付けたいような、そんな不安が滲み出た質問を受けることがある。が、ハッキリ言って、あらかじめ意味や価値を約束されている仕事など、どこにもない。建築家になればいいわけでも、医者になればいいわけでもない。肩書きは同じでも、意味のある仕事をしている人もいれば、まるで意味の感じられない仕事をしている人もいる。「これをやれば大丈夫!」というお墨付きを求める心性は、年齢差に関係なく分布しているようで、これらに出会うと本当に途方に暮れる。

このままAIが進み、2030年には3割の方が職を失うと言われている。自分が好きな仕事をするということは、不安定な生活が強いられることもあるだろうが、雇用されている方もずっと安定だとは保証できない時代がすぐそこまできている。どちらを選択しても不安定ならば自分の好きな仕事を見つけるしかないのでは。

・できるだけ自由に、自発的に仕事をしてもらうこと。そして逆説的であること。その仕事の価値や意味を問い続けること。

・安心して肩の力を抜ける環境づくりは必要かもしれない。褒めることで、勇気や自信を持つきっかけを与えることも、多少はできるかもしれない。しかし、自信とは文字通り自分を信じることであり、本来的に他人から与えられるものではない。本人が自分自身で抱くものでなければ、継続的な力の源泉にはならない。

 

自分の仕事をつくる②

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考え方

・合理的であること、生産的であること、無駄がなく効率的に行われることを良しとする価値観の先にあるのは、極端に言えば全てのデザインがファーストフード化した、グローバリズム的世界だ。そのゲームから降りて、仕事の中に充実感を求める時、私たちには「時間」を手元に戻す工夫が求められる。

・大事なのはコンセプトの精緻化より、むしろスタッフ間のコンテクスト(共有知)を育むことにある。

・私たちは毎日、誰かがデザインしたものに囲まれて暮らしている。別の言い方をすれば、生きてゆくということは、いろんな人の仕事ぶりに24時間・365日接しつづけていることだと言える。そして、「こんなもんでいいや」という気持ちで作られたものは、「こんなもんで・・・」という感覚を、ジワジワジワと人々に伝える。私たちは事実としてその貧しさを生きている。モノが沢山あるにもかかわらず、豊かさの実感が希薄な理由の一つはここにあると思う。

普段何気なく目にしているものはきっと自分に無意識に影響しているのでは。目に入れるものから考えてみる。日頃から妥協しない方の作品に触れることから意識を当ててみる。

・こういうもの作ったらいいなあって思うことはあるけど、でも、やっていくうちに出てきちゃうんだよ。いろんな格好が出てくる。なんでも常にそう。イメージは最初からあるんじゃなくて、徐々に変化して固まっていくんだよね。その前は、ごちゃごちゃ。どんなモノが出てくるんだかわからないよ。

そうか。イメージが最初から固まってなくてもいいんだ。作りながら創造していく。こんなスタイルがいいな。

・どのような分野にも、技術進化の過程で起こる倒錯現象がある。目的と手段が入れ替わってしまう現象。一種のオタク化といっていい。写真を撮るべく機材を揃えるうちに、機材を集める行為そのものが目的性を持ち始めてしまうこと。生活を支えることが目的であるにもかかわらず、建築物としての美しさや、建築誌での扱われ方に気を取られてしまう建築家。優れた技術者は、技術そのものではなく、その先にかならず人間あるいは世界の有り様を見据えている。

・デザインしなければならないのは、モノそのもではなく、それを通じて得られる経験だ。色や形は、プロダクトの魅力の一部に過ぎない。そもそもデザインとは、コーヒーカップそのものではなくコーヒーを淹れて飲むことの幸せや、車そのものでなくドライビングの喜びを対象とする仕事だ。経験をデザインするということ。五感の豊さとは、人生の豊さでもある。

・結局のところ、課題をクリアーしてゆく唯一の方法は、何度も失敗を重ねることでしかない。他に方法はない。大切なのは、本当の問題を発見していく能力です。表面的に目につく問題点は、より根本的な問題が引き起こしている現象のひとつにすぎないことが多い。では、問題に深くアプローチしていく方法はなんでしょうか。それは、机の上で頭を捻って問題を予測することではない。早い段階から、可能な限り具体的にテストし、トライ&エラーを重ねていくこと。これに尽きる。

・私たちは、小さな失敗をできるだけ多く、具体的に重ねることに注力しています。そのことによって、限られた商品開発の期間内にデザインの完成度を上げることができる。

・頭の中で想像しているものを実際につくってみると、さらに進んだ発想ができる。開発の中で出来るだけ早い時間に試作を作り、問題点をあげておくことが重要だ。大きな問題は後になって発見されることが多いが、開発の最終段階では試作をつくるのが難しい。

・新しい世界をつくり出す新しい仕事は、新しい方法にやって行われる。その最初の姿は「失敗」だ。

・他の人の成功事例をマネすることが、成功への近道だった時代がありました。そうした時代には、決められた設問に正確な解を出す学者が有効だったのは事実です。しかし、他の人の成功事例をマネすることが、必ずしも自分の成功を約束するものではなくなったのが、今の時代です。昨日までの成功は、今日の成功を意味しません。そのような時代に大切なのは、やはり創造力です。そして創造力とは、新しいものをつくり出す力を意味している以上、失敗を避けて培えるものではありません。早い段階の失敗は、完成度を上げるステップのひとつであり、資産である。その経験を足掛かりに、つくり手は上のステージへ登ることができる。失敗から学ぶことで人の認識は深まり、モノは進化する。失敗は、まだ見えていない可能性を開く扉だ。