自分の仕事をつくる①

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考え方

・目の前の机も、その上のコップも、全て誰かが作ったものだ。私たちは、数えきれない他人の「仕事」に囲まれて生きている。それらの仕事は私たちになにを与え、伝えているのか。様々な仕事が「こんなものでいいか」という、人を軽くあつかったメッセージを体現している一方で、丁寧に時間と心をかけられた仕事もある。こうゆう人達は、けして「こんなもんで」という力の出し惜しみはしない。このような仕事に触れる時、私たちは嬉しそうな表情をする。なぜ嬉しいのだろう。人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、常に探し求めている生き物だと思う。「こんなものでいいか」と思いながら作られたものは、それを手にする人の存在を否定する。

↑(陶器でも、工場で大量生産されたものと職人がひとつづつ作っているものは、見た目も触れても明らかに全然違う。これはデザイン性だけの問題ではなく、作り手の想いが陶器を通して伝わっているからかもしれない。その想いを受けとった相手はきっと、豊かな気持ちでいられるのだろう。僕がこれからお客さんを通じてものを作るとき、一切妥協はしてはいけない。自分の仕事が相手にも必ず伝わるからだ。上の文面のように手にした人の存在を否定することになる。)

・この世界は一人一人の小さな「仕事」の累積なのだから、世界が変わる方法はどこか余所にではなく、じつは一人一人の手元にある。多くの人が「自分」を疎外する社会が出来上がるわけだが、同じ構造で逆の成果を生み出すこともできる。

・コミュニケーションっていうのは喋ることじゃない。たとえば他の人よりも僕が喋った方が、たどたどしい英語でもやっぱり「伝わる」。なんといっても調子だとかノリ、テンポやタイミング、そういうものを伝えるのが大事なんだ。デザインというのは、単に視覚的なものではない。

・以前、あるピアノ奏者に「音楽家にとって、もっとも重要な能力とは何か?」という質問をしたところ、迷わず「聴く能力です」という答えが返ってきた。自分が出している音を聞き取る力がない限り、その先への進歩はない。イメージと現実のギャップが感じられるからこそ悩めるし、成長することも出来るが、もし「自分は十分にいい音が出せている」と感じたら、そこがその人の音楽の上限となる。だから、常に聴く能力を磨きつづけることが必要であり、歳を重ねることによる進化もあるのだ、と話してくれた。

↑(僕にとっては見る能力かな。いや観察する能力かな。これからデザインやモノを作っていく中で、自分から生み出したものに対して、一歩引いて客観的に観察してみる。これで良しとするのか、別の目でものを捉えてみて考えてみる。自分の能力を信じ切るのではなく、常に先陣をいっているデザイナーの作品からヒントを頂戴する。世の中の世界観を知るためにも。)

・たとえばセザンヌでも誰でも長いことかかって絵を描いているでしょ。下手な絵描きっていうのはすぐ絵ってできちゃうんだよ。あんなには描いていられないんですよ。ということは、あの人たちが見ているものを僕たちは見ていないわけ、あの人たちが見えているものは違うんですよ。だからあんだけ一生懸命描いているんですよね。自分に本当に見えているものを本当に出そうと思って。

・ワークショップは「観察」から始めます。たとえば、コーヒーにミルクをいれる行為について、二人一組で互いに観察し、発見したことを報告しあう。容器をどう開いて、どう注ぎ、注ぎ終えたものをどこに置くか。とても短くてシンプルな行為だから、下手をすると何も発見されない場合もある。それぞれ気づいた点を集めていくと、単純な行為でも様々なことが見えてくる。「開けた・注いだ・置いた」だけでは観察が足りないことが、なんとなくわかってくる。わずかな数秒の行為について、最後にはホワイトボード一枚分の観察記録が出来上がる。デザインを始めるには、こうしたオブザベーションを通じて、問題点を発見し、デザインのヒントを探さなければならない。

幸福に死ぬための哲学②

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考え方

・戦争に反対すると、口で言うのは簡単だが。起こっている戦争に加担するのは簡単だ。難しいのは、そもそも戦争とは何なのか、なぜ人は戦争するのかということについて、どこまでも深く見抜いて行くことだ。考えることだ。考えるほどに、いろんなことが見えてきて、君は考えるのをやめられなくなるはずだ。それで、いいんだ。それは、平和は善で、戦争は悪だと思い込んでいるよりも、はるかに賢いことなんだ。

・たいていの人は、生きるためにと思って仕事をします。そして、仕事をしているうちに、仕事をするために生きているのだという転倒が起こる。これが言うところの「仕事に燃える」と言う状態ではないかと私は睨むのですが、しかし、仕事は「しょせん」仕事です。会社が潰れたり、病気になったりしたら、失われてしまうようなものです。でも、その時でも、いやその時こそ、「私は何のために生きているのか」と言う問いが、解かれずに残っていたことが明らかになるはずですね。さて、人は、何のために生きているのでしょうか。

・情報をたくさんもっていると、賢くなったかのようにも、人は思うのらしい。しかし、そんなことは大間違いである。他人や世間のどーでもいい情報、いくらたくさん所有したところで、なんで賢くなることがある。それを自ら考えて自らの知識にできるのでなければ、しょせんは情報である。自ら考える、たとえ外的情報のひとつもなくとも、自らで考えられるのでなければ、人が知識を自身の血肉として賢くなるということは、あり得ない。

・このコンピューター社会の基本理念であるところの「便利」という思想、これが諸悪の元と言えます。「便利」の別名は、「早い」ということでしょう。手間が省ける、時間が省ける、目的地に早く着く、つまり時間が短縮できるということが、現代人にとっての価値なのです。それなら、人はいったい何のために、時間を短縮したいのか。時間というのは、言うまでもなく、自分の人生の時間です。現在の時間を節約することで、将来にそれが貯蓄した将来の時間のそこに、何か幸福といったものを期待しているみたいです。しかし「将来」なんてものは、よく考えると、どこにも存在していない。現在幸福である以外に、幸福であることはあり得ない。

・言葉は道具なんかではない。言葉は、自分そのものなのだ。だからこそ、言葉は大事にしなければならないのだ。言葉を大事にするといことが、自分を大事にするということなのだ。自分の語る一言一句が、自分の人格を、自分の人生を、確実に創っているのだと、自覚しながら語ることだ。そのようにして、生きることだ。言葉には、万物を創造する力がある。言葉は魔法の杖なのだ。人は、魔法の杖を使って、どんな人生を創ることもできる。それは、その杖を持つ人の、この自分自身の、心の構えひとつなのだ。

・言葉は人間を支配する力をもつから、それを言うその人を、必ずそんなふうにしてしまうものなのだ。面白いから、そう思って、まわりの人を観察してごらん。正しい言葉を話す人は正しい人だし、くだらない言葉を話す人はくだらない人だ。その人が話すその言葉によって、君はその人を判断するだろう。その人の話す言葉が、その人をまぎれもなく示していると気がつくだろう。世界を創った言葉は人間を創るということを、よく自覚して生きることだ。つまらない言葉ばかり話していれば、君は必ずつまらない人間になるだろう。

・この世で生きるとうことは、体をもって生きるということである。体は自然だから、変化する、壊れる、やがてなくなる。健康とは、そういう自然の事柄に寄り添うというか、いやむしろ離れて見るというか、流れに逆らわず舵を取るような構えのことだろう。体は人生のお荷物だというのは逆、体は人生を渡るための舟なのである。病気のひとつやふたつあるのもだから当たり前、むしろ病気のひとつも知らないと、人の心はヒダがなくなる。自分の若年を顧みて、今はそんなふうに思う。

・人が死を認識できるのは、他人の死を見る時だけです。自分が死んだ時は、自分はもういないのだから、自分が自分の死を知ることはできない。自分の死は、「ない」のです。多くの人が死をどうイメージしているかというと、「どうやら自分が無くなる」というものです。でも、自分がないことをどうやってイメージするのか、「無」というものを考えられたら、無でなくなってしまうわけです。ないものは考えられない、死は、ないのです。

・考えることは、悩むことではない。世の人、決定的に、ここを間違えている。人が悩むのは、きちんと考えていないからにほかならず、きちんと考えることができるなら、人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。なぜなら、悩むよりも先に、悩まれている事柄の「何であるか」、が考えられていなければならないのである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからないこと」は考えられるべきである。ところで、「人生いかに生くべきか」と悩んでいるあなた、あなたは人生の何をわかっていると思って悩んでいるのですか。

・私は考えるのです。私たちは、ひとりひとりは、時代や社会のことなど気にする必要はない。人は、自分のことだけを思って生きればいい。ひどい時代、悪い社会の中だからこそ、自分だけは、私だけでも、善き生きよう。善い人間として、善い人生を全うしようと、それだけを心がけて生きればいい。世界規模の大破綻が、いつ来るかわかりません。それでも、私ひとりだけでも、幸福な気持ちでいようではありませんか。ひとりひとりがそのことの意味に気がつくなら、ひょっとしたら、破綻は避けられるかもしれません。

 

幸福に死ぬための哲学①

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考え方

・人は、何でも、「思う」ことができる。これは本当に不思議なことだ。これが自由の原点だ。人生はつまらないものだと思えば、人生はつまらないものになり、人生は素晴らしいものだと思えば、人生は素晴らしいものになる。何もかも、思った通りになる。人生は、自分が思った通りの人生になっている。人は、思うことで、人生の運命を自由に創造することができるんだ。これは、なんて素晴らしくて、かつ、なんて厳しいことだろう。

・現代人は、客観的時間すなわち時刻のことを、人生だと取違えている。そうして、何日までに何をする、何年後までに何をする。時刻を先取ることで、人生を生きている。人生とは、すなわち予定である。予定を立てたのは自分でしかないのに、時間がないことを不平に言う。便利になるほど、時間は早い。忙しくなるほど、時間はなくなる。そうやって、忙しい忙しいと生きていたら、なんと死ねときがそこに来ていた。いったい人は、何のために何をしているのか。

・この人生、何のために生きるのかとは、生きている限り避けられない問いである。それは人間にとって最も根源的な問いであって、だからこそこんな問い、人に問いて答えが得られるものではない。根源的な問いほど、自ら問い自ら答える以外はあり得ない。答えを得たいなら生きている限り一度は自らに問うみるべき。「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか」さて、本当に楽しい人生は、どっちだと思いますか。

愛する人がいないから幸福になれない、と思いこんでいるから、あなたは不幸なのです。どうして他人がいなければ、あなたは幸福になれませんか。他人がいなければ幸福になれないというまさにそのことが、「愛する能力に欠けている」というそのことなのです。だって、自分を愛することができない人が、どうして他人を愛することができますか。すべては順序が逆だったということに、気がつくことが、始まりですね。

・「幸福」の名で、人が反射的に、「暮らし」未しくは「暮らしぶり」を表象してしまうのは、一体いかなる習性なのか、いつ頃からの癖なのか。しかし、この習癖それ自体が実は、見事に不幸を示している。そこには必ず比べる心があることだ。しかし、自分の幸福に完結している魂が、いかなる理由があって、他人のそれらを気にするだろう。なぜ人は、自分で幸福であろうとはしないだろうか、自分以外の一体誰が、幸福であることができるのだろうか。

・幸福というのを、お金に代表される、職業、生活、暮らしぶり、外から見てわかる形のことだと思うことで、人は間違える。その人の心が幸福出ないなら、そんなものは幸福ではないということに気づかないんだ。でも、幸福であるとは、心が幸福であるということ以外ではあり得ない。不幸な心は、どんなにお金を積んでも、幸福な心を買うことができないお金なんてもの、どうして人は欲しがるのだろう。

・信じるものは報われる。そうだ、まさしく、信じるものは救われるのだ。なぜなら、救われたくて信じるのだからです。考えるものは救われない。そうだ、救われるわけがない。なぜなら、救われるとはどういうことかと考えているのだからである。

・出会い系にせよ、ネットチャットにせよ、なぜ人は、さほどにまで他人を必要とするものだろうか。「人と繋がりたい」「自分を認めてもらいたい」というのだが、ハマる人の言い分である。しかし、自分を認めるために他人に認めてもらう必要はない。空しい自分が空しいままに、空しい他人と繋がって、なんで空しくないことがあるだろうか。人は、他人と出会うよりも先に、まず自分と出会っていなければならないのである。

・「わかろう」という意志、これは何か、言うまでもない、優しさである。わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。愛のない人にはわからない、愛のない人が、わかっている以上のことをわかることはあり得ない。なぜなら、最初から、わかる気がないからである。わかる気のない人に、なぜわかるわけがあるか、愛していないものを、なぜわかる気になれるか。

・人は、金によってよいものが手に入ることに慣れてくると、金それ自体をよいものと思うようになる。手段と目的が同一になったのだね。困ったことはだね、このとき人々は、よいものは金で手に入るものという考え方に慣れすぎていて、金では手に入らないよいもの、すなわち、「善」という価値の欲し方がわからないということなのだ。いくら金を積んでも、金を貯めても、善だけは手に入らないのだ。なぜなら、いいかね、善はタダだからだ。

じぶんの学びの見つけ方

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考え方

・今日の常識は10年後の非常識かもしれない。そのような時代を生きるには、まさに予測不可能な出来事に対して、柔軟に対応していく力が求められる。学校で学んだ知識だけでは対応できず、誰も答えを教えてくれない、誰も答えを知らない世の中で、生涯にわたり、学ぶ続けなくてはいけない。

・他人のせいにするのは簡単だけどそれはあまり解決を生まないですよね。問題が起きた際に、まずは自分に問題はなかったか?改善できることはないか?と考え、行動することにより、他者とも建設的な話し合いができ、それこそ協同が生まれやすくなるように思います。

・自分の中では、守りに入らないこと、ちょっと面白そうだなと思えるほうへ、わくわくするほうへと選択肢を絞って、選んでみる。そんな道を進めば進むほど、周りに学び合いの関わりができ、一人ではない、一緒にやっていきたい、という連帯感が生まれる。

・他者からの学びが自分の「身につく」ような素地を作っていくためには、やはり普段から自分でコツコツと本を読み、感じていくことをくり返していくしかないと思います。そのときに、楽しんで取り組んだほうが自分の身につくことは確かです。しかし、一方で、少し背伸びをしてでも難しい批評を読んでみたり、難解な映画を観たり、という経験を積む中で、無理にでも自分を引き上げていこうと努めることが、自分の学びを深めていくためには大切だと思います。

・どんなスポーツでも仕事においても、人の学びを引き出す上で一番大切なことは、その人の「やる気」を奮い立たせること。それがなければ絶対に強くなれませんし、良い仕事をすることもできません。必ずしもすべての人がやりたい仕事をしているわけではない環境の中で、リーダーがすべきことはチームにプロジェクトの具体的な目的をメンバーにわかりやすく伝え、一人一人の使命を理解してもらう。

・どの国にも政治問題はありますが、その原因のひとつは、政治家が体を動かさずに、ただ、机上の会議で大切なことを決めてしまってる。もともと政治とは、現場の空気を感じ、さまざまなことを体験した上で、実行すべきものだと思います。

・遊ぶこと=学ぶこと。学校で覚えなくてならないこと以上に、自分自身がわくわくしたり、おもしろいと感じるもの、それがアートだったり、科学だったり、何でもよくて、魂が喜ぶような出会いを見つけて、心が自然に動かされた時、自分はただ遊んでいる感覚でいても、知らないうちにいろいろなことを吸収し、学んでいる。生きがいは、そんな感覚から生まれるのでは。僕は、編集という仕事をしながら、その感覚の大切さをどう伝えていくか、そこに重点を置いて考えている。

・若き日のフレインは、教師として上から教えを導く態度では、いっこうに成果はあがらないことに気づく。 「人は独りでは学べない。誰かが誰かを一方的に教えるものでもない。現実世界と関わりながら、人はともに教えあい学びあうのだ」と述べている。

・学ぶということは、ぼくにとって、自分の思考様式の外に出て、考えるということ。自分の言葉ではない、だれかの言葉でものを考え、発想し、検討する。「思考は言葉」。もしかしたら「学びは、言葉」と言い換えれるのでは。つまり、思考や、学びが先にあるのではなく、まず最初に言葉があるということ。言葉のつながりの中に、具体的な思考や学びが存在するということ。

・歳を重ねていくうちに、自分の考え方が凝り固まっていくのを感じる。いろんな物事に対して自分の考え方を持てるようになったが、一方で、新しいことに対してはとても注意深くなってきた。若い頃のように、いろんなものに影響を受けることもなくなってきた。それはよくいえば成熟だけど、悪くいえば老い。

・私の行動の指針は「いつ死んでも後悔しないようにしたい」ということ。

・生と死は、何か別のものとして分かれて存在するのではなく、つながっているものであるという感覚。

・これからの将来は、もはや大きな経済成長というのは望めないのでは。低成長の中でどのように富を再分配していくかが問題となっていく。自分のいま立っている場所から価値を引き出し、それをただ伝統的に解釈して引き継ぐのではなくて、今日の文脈に落とし込み、新しい働き方や生き方をつくっていく。

・上を下の評価だけじゃなくて、人の数だけ世界が広がっていくことを実感して、見る人によって評価が変わっても、それがいいと思えるようになってきた。

・いろいろな世界に生きている人たちと出会い、話しているうちに、「普通」ってないんだなと思った。みんな実はどこか変なんじゃないかと思うと、自分の小さな自意識なんてどうでもよく感じられる。

・仏教はいわゆる「宗教」ではないと思ってる。宗教といわば自分がこの神を選びとるというニュアンスが強いが、仏教は、自分が目覚めていくための教えであり、その気づきを得るということ。

ノータイム・ポチ。「いいな」と思ったら、後先を考えずに即、ネットの申込みボタンをポチリと押す。知っているだけで行動していないことは、知っていることさえならない。行動の中に本物の知がある。ことを学ぶ。知と行は不可分であり、同時に起きるものだ。いいなと思ったら、後先を考えずに行動する。学ぶことは行動すること。行動することは、始めることと続けていくこと。

・「口癖が習慣を変え、習慣は遺伝子を変える」。自分でも消極的な言霊を封印し、積極的な言葉を駆使するようにしてきた。時間はかかるかもしれないが、そうすれば楽しい偶然が起こり、チャンスが増えると信じている。

・私は自分だけのために料理を作るよりも、料理を捧げられる相手がいる方が「生かされている」という気がして元気でいられることに気がついた。誰かのために日々食事を作り、食べてもらうということはつまり、人のことを考えながら自分の想いや時間を捧げることの繰り返しです。「人」の存在が自分を生かしてくれているのだと改めて実感している。

・もともと、日本では人が亡くなることを「不幸」と言うことに、疑問を抱いていた。死ぬ人間と死なない人間がこの世にいるなら、幸・不幸という言い方があってもいいかもしれない。しかし、必ず全員死ぬのに、最後に不幸になるということでは、人間は最初から負け戦に出るようなものではないか。死は、別に美しいものでも、楽しいものでも、不幸なものでもない。死は、ただそのままの死なのです。それをどう捉えるかは人間の心次第です。

・学びの持続には、時間の確保が必要となってくる。特に積極的に動かなくても現代の生活の中では、情報が流れ込んでくる。その大半が、知らなくても困らない情報。必要か不必要かの判断をするのにさらに時間が必要となるならば、思いきって、ほぼ不必要だと解釈して切っていくことも時には必要。

・たとえば誰かの行動に変化を与えたい時、人に何らかの気づきをもたらしたい時、他者に学習をもたらしたい場合は、教えるというよりはむしろ、相手が自ら変わっていくような場を与えることや、どれだけ相手に「面白い」と思ってもらえるかが大切。「面白い」という感覚、知識を得て、自分なりにものごとを理解できたと思えること自体リワード(報酬)になるから人は学ぶと言われる。

・人やものごとに接するときには、まっさらな状態で自分がどう反応するか、身体の感覚を大切にしている。あらかじめ「こう」と先入観を抱いてしまうと、本来であれば受けとめれたはずのものも受け取れず、また自ら発信していくこともできなくなってしまう。

・一人一人の個性を引き受けていくのは大変なこと。多様性を本当に受けいられるようには「経験」を積むしかない。

 

いま、地方で生きるということ

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考え方

・今の世の中の仕事は昔ほど土地に根ざしたものではなくなってきているから、仕事に運ばれるように住む場所も移していく人が多くなっている。

・働き口がなくとも、仕事は自分でつくっていけばいい。

・自分で考えて判断して。リスクを取りながら動いて、その結果からまた考えていく。成長とは、自分が安心していられる領域が広がること。広げるには、馴染みのある普段の快適な領域から外に出てみて冒険が必要。そこには未知で、容易ではない、あらかじめ保証されていない世界が広がっている。

・本当に力になりたいのなら遠くから「良さそう」な投げやりな言葉を言うではなくて、まず一度近づいてみないことには、話もかかわりも始まらないだろう。

・勇気は「出そう!」と言われて出てくるものじゃない。実際に出した人の姿を見た自分の内側から、湧き上ってくるもの。

・「主体的(自分の意思、判断によって)にチャレンジすること」

・「いい方向にいくだろうな」と思い込むこと

・「知らない場所に行っても結構自分なりに動けるのは、たぶん自信なんだと思う」自信がないと、相手や状況に合わせることで自分の居場所を確保しようとする。

・自分でつくり出して、遊んで、食糧もつくって。しかも技術は高くて、人に喜んでもらえる。どこにも依存していない。本当に自由な感じがして。どこか違う国にいっても、この人はなにかできるだろうな。

・なにかに依存しているかぎり当然そこでリスクが上がる。

・「いつここを去っても大丈夫」な状態にならなきゃいけないんだと。本当にポータブルに。地球の裏側に行っても成り立つような仕事やスキルを持ちえていないと自由になれないじゃないか。

・商売にせよ遊びにせよ、何事においても基本はやっぱり、一人でできる、ということ。「自立」というか個々のパワーアップがないと、最終的には単なる村社会のようになってしまう。とりあえず集っているだけっていうか。それぞれが「どこに行っても大丈夫」なぐらい自立していて、それでなにか一緒にした時、本当に面白いことができるんじゃないか。そこを目指したい。

・もう本当に閉じた世界というか、日本にはきっと「そこでしか通用しないルール」がいっぱいある。

・「僕らは幸せになるために生きているんだろうか?」「幸せになりたい」というアイデアを手放しさえすれば、どこでも十分に生きていけるんじゃないか。むしろそのアイデアによって、がんじがらめに不自由になっているんじゃないか。

・彼らはどんな土地でも、その場所でその時できる最高のことをしたいと考えている。

地域活性化と言うけど、それは地元の人たちが自分のまちにいかに誇りを持つかということじゃないか。自分もなにかしてかかわりたいという感じが大切ではないか。これは会社でも言えることなのではないか。

・自分が好きな場所・コト・人を、身近にどのくらい持っているか。どれくらいそれに気づいているか。が、何よりも大切な気がする。

・今の社会はすごく均質化(性質、状態が同じ)している。東北でも九州でも、同じ材料を使って家が建っていたり、国道沿いにどこも同じような店が並んでいたり。場所が均質化している。なにもなくてつまらないんじゃなくて、同じようになろうとしていたことがつまらなかった。

・まちづくりに対する彼のスタンスは、まず「当事者になる」こと。

・多くの人から見ればちっぽけなことでも、本人にはすごく大事なもの。そんな小さなものを大切にして認め合える公共性(共有すること)が必要じゃないかな。

・豊かさって、それぞれの体験や想いを分かち合える、こんな時間があることを指すんじゃないかな。少なくともこれはお金では買えない。

・僕らは大人になると大抵は、社会的に条件付けられた心の動きにほぼすべて乗っかりながらいろんなことを考え、判断している。が、そこから少し外れて客観的に観察する。観ていると、社会的な条件付けによる心の動きがすべてではないことがわかる。一番価値のあるものではないということがわかる。

・「関係の断食」日本人はいつも人との関係の中で動いたり考えたりしているわけだけど、そういう関係性がない状態の自分はどういう人間なのか、自然の中に入るのを積極的につくってみる。

・お金が要るという重力。生きていくために、お金が要る度合いは、都市に近づくほど強く、遠ざかるほど弱い。生存に欠かせない水、食料、衛生環境などの環境資源を都市はシステムとして構築・提供していて、それらへのアクセスにある程度のお金がかかる。しかし遠ざかればその重力も弱くなる。「生活のためには働かなければいけない」という言葉をあたり前のように口にする人がやや多すぎる気がするけど、もしそれが「お金が要る」というだけの話なら、とりあえず該当する重力が強い場所は避けることができる。

 ・ウルトラライトハイキングの考え方とか方法論って、仕事や生活のなかのいろんなものに当てはまるのではないか。山登りは自分が背負えるものしか持って歩けない。これってすごくシンプルな真実っていうか、超お金持ちだからって、ベンツ担いで持っていくわけにはいかない。だから自分が持って歩けるものしか持っていけない。

・お金を持っていることが、力を持っていることになる世の中で、多くの人がお金を求めている。そのお金には際限りなく増える性質があって、求めにも際限りがない。

・フィジカル(身体的)なことに意識が移ってきて。メンタルがどうのこうの言うよりフィジカルを触っていったほうがいいかなって思っていて、結構放置みたいな。

・自分の維持費を下げてみる。生活コストを減らすことで、より多くの自由な時間を持てるから、仕事も減らせるし、楽しいし、料理や勉強にもっと時間を使えるという。良いスパイラルを生むには「自分のコストを下げないとダメだ」と思ったのと、遂行品(物事をなしとげること)を最小限にして軽量化することで、山歩きが楽しいものに変わってゆくウルトラライトの方法論は、パラレルに刺激し合っている。

・自分もたまにイライラするときがあるんです。怒ったり、妻とも喧嘩になったり。結構強く意見を言うときもあるんだけど、そういうのは全部、自分を守ろうとしているんですよね。相手に言われることで自分のなにかを崩されるとか、怯えとか。で、苛立ったり、怒ったりするときは「これは意見の違いではなく、自分の恐怖心からきているんだ」と踏まえると、また別のリアクションができる。相手に向かうベクトルを、一度自分に戻す。

・「ちゃんとした家に住まないとダメだ」とか、「立派な仕事をして、それなりの収入を得ないと幸せな家庭を築けない」とか思って生きていると、仕事がなくなった瞬間にものすごい恐怖が押し寄せてくると思うんです。でも、もともとの幸せ像を、そんなにお金のかからないものとして捉えていたら。仕事がばりばり安定していなくても、必要最低限の収入がはっきりと数字でわかっていて、それを得られるものにしておくことができれば、恐怖を取除くこともできる。方法論として。

・5年後を自分を考えるより、1年後とか1ヶ月後ぐらいの自分に向かって、今やることをやっていくほうが精度が高い。今5年後を扱わなくてもいいやろうと。

・「お金で買えないもの」が、アウトドアの時間の中にいっぱい出てきて。

・お金で買えないものがあるように、お金で解決できることもいっぱいあって。こういう保険に入りますとか、いっぱい貯金しますとか、こういう家具こういう車、子どもたちはこういう学校に入れたいとか。そういうのを全部、欲も恐怖もお金で解決していく構造があると思うんです。サービスもたくさんある。

けど「高すぎる」というのが僕がすごく感じることで「幸せの見積もり」というか。住宅メーカーのコマーシャルが流れているのを見て「でもこれめっちゃお金かかるよな」と思った。もしこれが「幸せ」と刷り込まれたら、そしてこれを「達成したい」と思ったら何千万といる。

これを実現するとなったら、やっぱりすごく収入の高い暮らしを目指さないと難しい。なおかつあれを幸せだと思い込んでしまうと、僕らの今の暮らしが、それよりも差し引き劣っていると思うんです。比べると常にマイナス印象しか受けられない。現状に満足しにくい。売りつけられている幸せが高すぎる。

 

言葉の使い方

・八方美人な返答でお茶を濁して別れた。

・旅に出てはみたものの財布には900円ぐらいしか入っていないような、そんな心細さでいっぱいだ。

 

知らない言葉

・過疎地・・人工の減少により、その地域の活力が低下している地域

モノカルチャー・・一種の作物だけを栽培する農業

・フラストレーション・・欲求がなんらかの障害によって阻止されている状態。欲求不満。

・劣等感・・自分が他より劣っているという感情

 

やることリスト

・自分の月の最低限の出費をあげてみる

(これにともない自分の働き方を考えてみる)

・会社に頼らずに、自分でお金を生みだる方法を考える

・将来について不安がつきまとったら「いい方向に向かう」ことに思考転換する。

・要らないものはないか、重荷になっているものを捨てる。