じぶんの学びの見つけ方

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考え方

・今日の常識は10年後の非常識かもしれない。そのような時代を生きるには、まさに予測不可能な出来事に対して、柔軟に対応していく力が求められる。学校で学んだ知識だけでは対応できず、誰も答えを教えてくれない、誰も答えを知らない世の中で、生涯にわたり、学ぶ続けなくてはいけない。

・他人のせいにするのは簡単だけどそれはあまり解決を生まないですよね。問題が起きた際に、まずは自分に問題はなかったか?改善できることはないか?と考え、行動することにより、他者とも建設的な話し合いができ、それこそ協同が生まれやすくなるように思います。

・自分の中では、守りに入らないこと、ちょっと面白そうだなと思えるほうへ、わくわくするほうへと選択肢を絞って、選んでみる。そんな道を進めば進むほど、周りに学び合いの関わりができ、一人ではない、一緒にやっていきたい、という連帯感が生まれる。

・他者からの学びが自分の「身につく」ような素地を作っていくためには、やはり普段から自分でコツコツと本を読み、感じていくことをくり返していくしかないと思います。そのときに、楽しんで取り組んだほうが自分の身につくことは確かです。しかし、一方で、少し背伸びをしてでも難しい批評を読んでみたり、難解な映画を観たり、という経験を積む中で、無理にでも自分を引き上げていこうと努めることが、自分の学びを深めていくためには大切だと思います。

・どんなスポーツでも仕事においても、人の学びを引き出す上で一番大切なことは、その人の「やる気」を奮い立たせること。それがなければ絶対に強くなれませんし、良い仕事をすることもできません。必ずしもすべての人がやりたい仕事をしているわけではない環境の中で、リーダーがすべきことはチームにプロジェクトの具体的な目的をメンバーにわかりやすく伝え、一人一人の使命を理解してもらう。

・どの国にも政治問題はありますが、その原因のひとつは、政治家が体を動かさずに、ただ、机上の会議で大切なことを決めてしまってる。もともと政治とは、現場の空気を感じ、さまざまなことを体験した上で、実行すべきものだと思います。

・遊ぶこと=学ぶこと。学校で覚えなくてならないこと以上に、自分自身がわくわくしたり、おもしろいと感じるもの、それがアートだったり、科学だったり、何でもよくて、魂が喜ぶような出会いを見つけて、心が自然に動かされた時、自分はただ遊んでいる感覚でいても、知らないうちにいろいろなことを吸収し、学んでいる。生きがいは、そんな感覚から生まれるのでは。僕は、編集という仕事をしながら、その感覚の大切さをどう伝えていくか、そこに重点を置いて考えている。

・若き日のフレインは、教師として上から教えを導く態度では、いっこうに成果はあがらないことに気づく。 「人は独りでは学べない。誰かが誰かを一方的に教えるものでもない。現実世界と関わりながら、人はともに教えあい学びあうのだ」と述べている。

・学ぶということは、ぼくにとって、自分の思考様式の外に出て、考えるということ。自分の言葉ではない、だれかの言葉でものを考え、発想し、検討する。「思考は言葉」。もしかしたら「学びは、言葉」と言い換えれるのでは。つまり、思考や、学びが先にあるのではなく、まず最初に言葉があるということ。言葉のつながりの中に、具体的な思考や学びが存在するということ。

・歳を重ねていくうちに、自分の考え方が凝り固まっていくのを感じる。いろんな物事に対して自分の考え方を持てるようになったが、一方で、新しいことに対してはとても注意深くなってきた。若い頃のように、いろんなものに影響を受けることもなくなってきた。それはよくいえば成熟だけど、悪くいえば老い。

・私の行動の指針は「いつ死んでも後悔しないようにしたい」ということ。

・生と死は、何か別のものとして分かれて存在するのではなく、つながっているものであるという感覚。

・これからの将来は、もはや大きな経済成長というのは望めないのでは。低成長の中でどのように富を再分配していくかが問題となっていく。自分のいま立っている場所から価値を引き出し、それをただ伝統的に解釈して引き継ぐのではなくて、今日の文脈に落とし込み、新しい働き方や生き方をつくっていく。

・上を下の評価だけじゃなくて、人の数だけ世界が広がっていくことを実感して、見る人によって評価が変わっても、それがいいと思えるようになってきた。

・いろいろな世界に生きている人たちと出会い、話しているうちに、「普通」ってないんだなと思った。みんな実はどこか変なんじゃないかと思うと、自分の小さな自意識なんてどうでもよく感じられる。

・仏教はいわゆる「宗教」ではないと思ってる。宗教といわば自分がこの神を選びとるというニュアンスが強いが、仏教は、自分が目覚めていくための教えであり、その気づきを得るということ。

ノータイム・ポチ。「いいな」と思ったら、後先を考えずに即、ネットの申込みボタンをポチリと押す。知っているだけで行動していないことは、知っていることさえならない。行動の中に本物の知がある。ことを学ぶ。知と行は不可分であり、同時に起きるものだ。いいなと思ったら、後先を考えずに行動する。学ぶことは行動すること。行動することは、始めることと続けていくこと。

・「口癖が習慣を変え、習慣は遺伝子を変える」。自分でも消極的な言霊を封印し、積極的な言葉を駆使するようにしてきた。時間はかかるかもしれないが、そうすれば楽しい偶然が起こり、チャンスが増えると信じている。

・私は自分だけのために料理を作るよりも、料理を捧げられる相手がいる方が「生かされている」という気がして元気でいられることに気がついた。誰かのために日々食事を作り、食べてもらうということはつまり、人のことを考えながら自分の想いや時間を捧げることの繰り返しです。「人」の存在が自分を生かしてくれているのだと改めて実感している。

・もともと、日本では人が亡くなることを「不幸」と言うことに、疑問を抱いていた。死ぬ人間と死なない人間がこの世にいるなら、幸・不幸という言い方があってもいいかもしれない。しかし、必ず全員死ぬのに、最後に不幸になるということでは、人間は最初から負け戦に出るようなものではないか。死は、別に美しいものでも、楽しいものでも、不幸なものでもない。死は、ただそのままの死なのです。それをどう捉えるかは人間の心次第です。

・学びの持続には、時間の確保が必要となってくる。特に積極的に動かなくても現代の生活の中では、情報が流れ込んでくる。その大半が、知らなくても困らない情報。必要か不必要かの判断をするのにさらに時間が必要となるならば、思いきって、ほぼ不必要だと解釈して切っていくことも時には必要。

・たとえば誰かの行動に変化を与えたい時、人に何らかの気づきをもたらしたい時、他者に学習をもたらしたい場合は、教えるというよりはむしろ、相手が自ら変わっていくような場を与えることや、どれだけ相手に「面白い」と思ってもらえるかが大切。「面白い」という感覚、知識を得て、自分なりにものごとを理解できたと思えること自体リワード(報酬)になるから人は学ぶと言われる。

・人やものごとに接するときには、まっさらな状態で自分がどう反応するか、身体の感覚を大切にしている。あらかじめ「こう」と先入観を抱いてしまうと、本来であれば受けとめれたはずのものも受け取れず、また自ら発信していくこともできなくなってしまう。

・一人一人の個性を引き受けていくのは大変なこと。多様性を本当に受けいられるようには「経験」を積むしかない。