幸福に死ぬための哲学①

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考え方

・人は、何でも、「思う」ことができる。これは本当に不思議なことだ。これが自由の原点だ。人生はつまらないものだと思えば、人生はつまらないものになり、人生は素晴らしいものだと思えば、人生は素晴らしいものになる。何もかも、思った通りになる。人生は、自分が思った通りの人生になっている。人は、思うことで、人生の運命を自由に創造することができるんだ。これは、なんて素晴らしくて、かつ、なんて厳しいことだろう。

・現代人は、客観的時間すなわち時刻のことを、人生だと取違えている。そうして、何日までに何をする、何年後までに何をする。時刻を先取ることで、人生を生きている。人生とは、すなわち予定である。予定を立てたのは自分でしかないのに、時間がないことを不平に言う。便利になるほど、時間は早い。忙しくなるほど、時間はなくなる。そうやって、忙しい忙しいと生きていたら、なんと死ねときがそこに来ていた。いったい人は、何のために何をしているのか。

・この人生、何のために生きるのかとは、生きている限り避けられない問いである。それは人間にとって最も根源的な問いであって、だからこそこんな問い、人に問いて答えが得られるものではない。根源的な問いほど、自ら問い自ら答える以外はあり得ない。答えを得たいなら生きている限り一度は自らに問うみるべき。「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか」さて、本当に楽しい人生は、どっちだと思いますか。

愛する人がいないから幸福になれない、と思いこんでいるから、あなたは不幸なのです。どうして他人がいなければ、あなたは幸福になれませんか。他人がいなければ幸福になれないというまさにそのことが、「愛する能力に欠けている」というそのことなのです。だって、自分を愛することができない人が、どうして他人を愛することができますか。すべては順序が逆だったということに、気がつくことが、始まりですね。

・「幸福」の名で、人が反射的に、「暮らし」未しくは「暮らしぶり」を表象してしまうのは、一体いかなる習性なのか、いつ頃からの癖なのか。しかし、この習癖それ自体が実は、見事に不幸を示している。そこには必ず比べる心があることだ。しかし、自分の幸福に完結している魂が、いかなる理由があって、他人のそれらを気にするだろう。なぜ人は、自分で幸福であろうとはしないだろうか、自分以外の一体誰が、幸福であることができるのだろうか。

・幸福というのを、お金に代表される、職業、生活、暮らしぶり、外から見てわかる形のことだと思うことで、人は間違える。その人の心が幸福出ないなら、そんなものは幸福ではないということに気づかないんだ。でも、幸福であるとは、心が幸福であるということ以外ではあり得ない。不幸な心は、どんなにお金を積んでも、幸福な心を買うことができないお金なんてもの、どうして人は欲しがるのだろう。

・信じるものは報われる。そうだ、まさしく、信じるものは救われるのだ。なぜなら、救われたくて信じるのだからです。考えるものは救われない。そうだ、救われるわけがない。なぜなら、救われるとはどういうことかと考えているのだからである。

・出会い系にせよ、ネットチャットにせよ、なぜ人は、さほどにまで他人を必要とするものだろうか。「人と繋がりたい」「自分を認めてもらいたい」というのだが、ハマる人の言い分である。しかし、自分を認めるために他人に認めてもらう必要はない。空しい自分が空しいままに、空しい他人と繋がって、なんで空しくないことがあるだろうか。人は、他人と出会うよりも先に、まず自分と出会っていなければならないのである。

・「わかろう」という意志、これは何か、言うまでもない、優しさである。わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。愛のない人にはわからない、愛のない人が、わかっている以上のことをわかることはあり得ない。なぜなら、最初から、わかる気がないからである。わかる気のない人に、なぜわかるわけがあるか、愛していないものを、なぜわかる気になれるか。

・人は、金によってよいものが手に入ることに慣れてくると、金それ自体をよいものと思うようになる。手段と目的が同一になったのだね。困ったことはだね、このとき人々は、よいものは金で手に入るものという考え方に慣れすぎていて、金では手に入らないよいもの、すなわち、「善」という価値の欲し方がわからないということなのだ。いくら金を積んでも、金を貯めても、善だけは手に入らないのだ。なぜなら、いいかね、善はタダだからだ。