生きる力になる禅語

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煩悩の中に悟りがある

・平常心とは、一言でいえば、造作のない心。つまり、作り事をしないということがこの言葉で説かれています。

・すべての出来事は誰のせいでもなく、ただ起こっているだけ。「すべて何があっても自分のせいとは思わないこと」と言って、すぐ後に「そして誰のせいとも思わないこと」だと言われました。「すべてそういう出来事が起こっているだけであって誰のせいとも思わない」というんです。

・「自分のせい」と言うと、それは結局自分が身心を苦しめるだけです。かといって「お前が悪いんだ」と言えば、これもまた人を攻撃しているようで自分の体と心を痛めつけているでしょう。だから、もうすべてはそういう出来事が起こっているだけだと見る。

・笑うときというのは、あれこれ考えずに、ただ可笑しいから笑うだけです。ただ今という瞬間にいるだけです。そうすると、お互いの壁がなくなって本当に打ち解けていくのではないかと。

・我々は格好をつけたり、あるいは言葉を発したりすることによって、どうにか人に対しては取り繕うことはできます。しかし、自分をごまかしたり、騙してはいけない。自分で納得がいかないものは納得がいかないものとして、ちゃんと認めていかなければならない。自分でわからないことは自分でいい加減にしてはいけない。そのようにして自分で自分をごまかしてはいけないということです。

・(あなたが私のことを罵るのであればいくらでも罵りなさい。あなたが私に唾をかけるのであればいくらでも唾を吐きかけなさい。唾がなくなったならば水でもぶっかけなさい)これは決して他を圧するような、他を攻撃するような、他を折伏していくような強さではないんですね。何をされても、何を受けても、微動だにしない。こういう心でいることこそが最も強いと言ってるわけです。

・「一切人の与に煩悩を為す」修行とは悟りを目標としているものではなくて、そこを通り抜けて、人のために尽くしていくということでなければならないと言っています。

・我々には、食欲とか男女の欲望とか睡眠欲とか、さまざまな欲望があるわけですが、仏教の一つの立場として、そのような欲望を完全に滅することが悟りであるという考え方があります。ただ、特に禅では、それは通過点にすぎないんです。欲望は完全にはなくならないでしょうけれども、いずれにしても欲望を制御するだけで終わってはいけない。だから、禅には欲望をなくして仏の心になるというのではなくて、その欲望が実は仏の心なのだと考えます。

 ・問題はその煩悩が何によって生じているものなのかということです。自分の楽しみのための煩悩なら、それはダメ。自分の欲望も最低限は必要でしょうけれども、仏というのは人々のために煩悩するのだというわけです。人々が苦しんでいるのを見て自らも涙を流していく。人々が飢えているのを見て、この人に何か食べさせせてあげたいと思うのが仏なのだと。もしも煩悩がなかったら、そんな人の苦しみも何もわかりません。お腹が減ったなあという気持ちがあるから、「ああ、つらいだろうな」とお腹が減っている人の気持ちがわかって、何かをあげることができるわけです。「煩悩は人のために使え」。同じ煩悩を持っていても、自分のために煩悩を使っているのは凡人であって、人のために煩悩を使っていくのが仏です。

・「南無地獄大菩薩」ある役人が趙州に「禅師のようなお方は決して地獄に行くことはないでしょうね」と聞くんです。すると趙州は「いや、私は真っ先に地獄に落ちる」と言うんですよ。「どうしてあなたのようなお方が地獄に落ちるのですか」と役人が不思議に思って聞くと、「私が地獄に行かなければお前を救えんではないか」と答えるんですね。つまり、お前が地獄に落ちるのは当たり前だが、その地獄に落ちて、地獄に落ちている人を救ってあげようと言う発想なんですね。

・私たちは本来仏であり、仏であるから仏に気づき、仏になれる。自分でない自分を一生懸命求めても絶対に仏になれない。まず自分が仏であることに気づきなさい。そして磨いていきなさい。仏が仏であるということに気づくために修行をする。仏になるのが目的ではなくて、もうゴールに立っている。私たちはつい道の向こう側にゴールや目的地があって、そこまで一生懸命行こうと考えますが、実は私たちの歩いている一歩一歩がゴールなのだということですね。先ほどの平常心とのかかわりで言うならば、先へ先へと足りない自分を求めようとするのではなくて、今いるところにただ立って、そこにゴールを味わうということが平常心なのかなというふうにも思います。

・人生は先がわからない迷路のようなものです。でもそれは行き止まりがない迷路だと私は思っています。行き止まりがあったら正解と不正解に分かれてしまいますが、行き止まりがなければどの道を選んでも必ず前に進むわけです。すべての一歩が真実の一歩であるという思いで生きていくことが、禅の精神なのではないでしょうか。そのように生きるために、まず自らが仏であるということに気づかなくてはいけないわけです。

・人生には人それぞれ、いろんな目的や志があると思いますが、最終的に誰もが「幸せになりたい」、「理想の自分になりたい」と思って生きています。そのために私たちは「今のままじゃいけない、こうしなきゃいけない」と自分を否定していきます。でも考えてみると簡単なことですが、「幸せになりたい」という人は絶対に幸せにはなれないんです。「理想の自分になりたい」という人は絶対に理想の自分にはなれません。これは保証します。なぜかというと、今の自分に対して「私は不幸せです」とか「私は嘘の自分です」という看板を掲げているからです。私たちは今にしか生きていません。過去に生きている人もいないし、未来に生きることもできません。ずうっと今なんです。その今を否定して、「まだダメだ」「これではダメだ」「今の自分は偽物だ」「今は不幸せだ」と言っていたら、人生全部が不幸せになり、全部が偽物の人生になってしまう。幸せになりたいのなら、今の自分をちゃんと認めればいいのです。今しかないのですから、他と比べる必要はありません。

・いつも「あれやらなきゃ、これやらなきゃ」と思うのですが、時々ふと「あ、今この瞬間、このために自分は生まれてきたんだ」と思うことがあります。例えば、朝パッと目を開けて窓の外を見ると青空がきれいで「あ、この空を見るために自分は生まれてきたんだな」と思ったり、境内でおじいちゃんにすれ違って「お早うございます」と挨拶をしたときに「あ、この人と出会うために生まれてきたのかな」と思ったり、子供を抱っこしてギュッと抱きしめたときに「あ、これをするために生まれてきたのか」と思ったり。でも本質的なことをいえば、何かのために生きるというよりも、ただ生きることそのものが目的なのかなと思います。逆に目的意識が強すぎて、それに向かのに「どうせ自分はダメだろう」と思ったり、あるいは挫折をしてしまったときに自堕落になってしまうのではないかと。でも、そういうふうに自堕落になったときこそ、「今ここ」にドンと腰を据えるべきだと思うのです。

・自分はこんなに苦しい、自分はこんなに悩んでいる、自分はこんなに煩悩だらけで・・・と言っているけれども、その自分を見つめてみると、その自分こそが悩み苦しみをつくっているんですね。自分が煩悩製造装置なんです。煩悩の根源は何かと探っていくと、自分自身がそれなんです。そんな自分が煩悩を払おうとするのは、煩悩をつくっている張本人が煩悩を払おうとすることですから、自分の体を自分で持ち上げるのと同じぐらい無理な話です。だから、煩悩があってはダメだと払うのではなく、まず自分が煩悩の塊であることを直視することが大事になるのです。

・私が注目したのは、「最初は外の情報や自分のわがままな欲望は調えなさい、それに振り回されていたらダメですよ」と言って、体を調え、呼吸を調え、心を調えてきたら、その次の段階に再び「欲を持て」というのが出てくるところです。この欲というのは「良い願い」ですね。もっと努力をしようとか、もっと頑張ろうとか。この欲は修行の原動力になるというか、いい意味での欲というのがあるわけですね。それは「意欲」ですね。

・五縁(五つの準備)

持戒清浄・・戒律を保ち、正しい生活をする。

②衣食具足・・適度な衣食で心身を調える。

③閑居静処・・喧騒を離れ、静かで心が落ち着く環境を調える。

④息諸縁務・・世間のしがらみや情報過多の生活から離れる。

⑤得善知識・・よい師や仲間を得る。

・やはり皆が完璧ではないんだという意識を持って、自分の煩悩がどんな形であるかを見定めて、そして同時に相手にもまた違う煩悩があるんだと認めることが大事なのではないでしょうか。煩悩同士が対立したり、判断し合ったり、裁き合ったりするのではなくて、お互いにお互いの煩悩を理解し、認め合い許し合って、そして最終的に煩悩同士が支え合っていくというところに慈愛が生まれるのではないかと思うのです。

・「自分が自分を自分する」とは一体どういう意味なのだろうかとずっと思っていたんです。普通に考えると、「自分というものをなくせ」というのが禅の教えだと思いますが、自分を捨てて何かを悟れというのではなくて、まず自分の生きなければダメだというわけです。つまりこれは、自分の煩悩を引き受けて生きるというのが禅の生き方なんだという意味ではないかと思ったのです。